反骨の気概。


  • 弟子たちが回忌の際に
    編纂した「一茶発句集」

  • 反古紙を使った行李には旅の年輪が刻まれる

思い込みを覆す気骨

「俳句には興味がないんです」―この言葉を発したのは、こともあろうに小林一茶の直系の子孫である。信濃町柏原在住の小林重弥さんだ。七代目にあたる。日本人では知らぬ者のいない俳人を先祖に持つ人だ。俳句とは何かしらの縁を持って生きているのではと想像していた。そんな思い込みは、ばっさりと切って捨てられた。
「一茶の子孫と名乗って、先生面して俳句をひねる生き方もあったんでしょうが、それは性に合いませんでした」。小林さんはそう続ける。「ここで豆腐屋をやったり勤めに出たりしていました」。自由でいたい、野性人でいたい、そう思って生きてきた。かくあるべしという路線をよしとしなかった。言葉の端々に、反骨の気概がにじむ。
振り返れば一茶にも、同じような性向が看て取れる。裕福な弟子たちに俳諧を教えることで生計を立てていた。句を量産しても楽とは言えぬ暮らし。諧謔精神に富んだ幾多の句は、そんな境遇から生まれた。
優しげな句からときおりはみ出る、反骨の手甲に包まれた握り拳。こんな句もある。

づぶ濡れの大名を見る炬燵かな

「大名」は、大名行列。冷たい雨に濡れそぼり歩を進める厳めしい武士たちを、ぬくぬくと炬燵にあたりながらのぞき見している。権威への反発を、小気味よい諧謔で表す。

立体感のある一茶像を形づくりたい

俳人には「漂泊の旅」が付きものだ。一茶も例外ではなかった。故郷をあとに江戸に出て、西国を回り、江戸に戻ってからも房総などを巡って俳諧を教える。柏原を終の棲家と決めたのは、すでに齢50を迎えていた。江戸で自らの一門を成す願望が叶わなかったから、かもしれない。
「一茶はとても頑固な人だったんではと思います」。土地では浮いていた、と小林さんは評する。「柏原へ帰ってからも変人扱いされていた。弟子はほとんど飯山や長野近辺。食べるためにそっちの方を回っていたんですね」。
一茶研究についても、一言持っている。一茶は親の言うことを聞き、真面目に勉強した子供だと小林家では伝えられてきた。ならば、その父親はどんな人物だったかをもっと掘り下げるべきだと。
「一茶文学の研究者はたくさんいるのに、歴史を知ろうとする人はいない」と小林さん。黒姫から柏原に出て、土地を拓いて中農となり一茶をもうけた。そんな先祖や父親をもっと知ることで、一茶像は立体感を持つ。
一茶の手足は大きかったと伝わる通り、小林さんの手足も大きい。骨太な、反骨の気概。一茶の遺伝子は、信濃町で確実に脈打っている。

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